先日、職場の上司から「宇多田ヒカルの新しいアルバムを聴く前に、これを読んだほうがいいよ」と沢木耕太郎の『流星ひとつ』を貸してもらった。1979年、28歳で芸能界を去る決意をした、宇多田ヒカルの母である藤圭子。この本は沢木耕太郎が彼女の引退前にインタビューをした内容をまとめたノンフィクション作品だ。なぜ歌を捨てるのか、歌をやめて、どこへ向かおうとしているのか。東京赤坂、ホテルニューオータニの42階にあるバー・バルゴーにて。八杯の火酒(ウォッカ)を飲み干すまで語った内容が、完全にふたりの会話のみで綴られている。
僕は藤圭子についてはまるで知らなかったのだけれど、宇多田ヒカルの発言や彼女の最期から、脆く繊細な人なのだろうと思っていた。しかし、本の中に出てくる藤圭子は「精神を病み、永年奇怪な行動を繰り返した末に投身自殺をした女性」という一行で片付けることの出来ない、輝くような精神の持ち主として存在していた。
目の見えない母親と乱暴な父親と上京し、生きるために流しとして生活してきた幼少期。芸能界のスターダムを何食わぬ様子で、我関せず顔で進んでいたように見える彼女の葛藤。何より、彼女の歌に対する純粋で熱い思い。その全てが彼女自身の発言から強く伝わってきた。
「歌の心を理解し自分の心が熱くなるようなものがあれば、それを曲に乗せて歌い、人の心の中に入っていける」と自信を持って話す彼女。
《ここは東京ネオン街 ここは東京なみだ町 ここは東京なにもかも ここは東京嘘の町》という歌詞に対し「ここは東京、なんて当たり前の歌詞が、みんな味が違うんだよね、歌にすると。四つが四つ違うんだ。あたし、これを歌うとき、聴いている人に、四つの東京が見せることができると思った」とめちゃくちゃ右脳的だけど、確かにプロフェッショナリズムを感じる発言もあった。
また、読み進めるうちに宇多田ヒカルがどれだけ藤圭子の人生をトレースしている(影響を受けている)かもわかった。
19歳で初めての結婚をした藤圭子は「お母さんも、お父さんと一緒になったのが19歳のときだったんだ。それに、お姉ちゃんも、19歳で結婚した。みんな19歳なの」と語る。この一文を読んだ時、そういえば...宇多田ヒカルも最初に結婚したのは19歳だよな...なんて思い出だしてゾワっとした。
藤圭子が28歳の時に芸能界をやめる理由は「歌以外の勉強をしたい」だったのだが。宇多田ヒカルもまた、27歳で「人間活動」を理由に休業を決意する。
これは僕の勝手な憶測なんだけど、宇多田は母親の人生を意識的にトレースすることで母親が当時何を感じていたかを模索していたのではないか。様々な要因で母親を理解することができなかった彼女にとっては、それが唯一の方法だったのではないか。
また『流星ひとつ』は、1979年にインタビューが行われたにも関わらず、2013年に初めて世に出た本である。藤圭子が芸能界への未練のなさを強い発言でありのままで語るこの本。これが世に回ることで、万が一復帰しなければならないときに、その妨げになるのではないかと沢木耕太郎自身が出版するのをとめていたのだ。しかし、藤圭子の自殺を経て、宇多田ヒカルが出した以下のメッセージが彼の心を変えた。
-------------------------------- 彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、ずっと悩んでいました。幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした。母が長年の苦しみから解放されたことを願う反面、彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔の念が募るばかりです。誤解されることの多い彼女でしたが... とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。沢山の暖かいお言葉を頂き、多くの人に支えられていることを実感しています。ありがとうございました。 -----------------------------
沢木耕太郎はこれを読み「もしかしたら宇多田ヒカルはごく小さい頃から、母親である藤圭子の精神の輝きをほとんど知ることなく成長したのではないか。インターネットの動画で母親のかつての美しい容姿や歌声を見たり聴いたりしたりはできるかもしれない。けど、彼女のあの水晶のように硬質で透明な精神を定着させたものはもしかしたらこの本しかないのかもしれない。もしこの『流星ひとつ』を読むことがあったら。彼女は初めての藤圭子と出会うことができるのかもしれない。」そんなことを思い、本を世に出すことを決めたという。あとがきに書かれた彼の熱い気持ちに自然と涙がでた。
この本を宇多田ヒカルが読んだかどうかはわからない。しかし来週リリースされる彼女のアルバムのリード曲『道』を聴き、今まで母親の人生をトレースしてきた彼女だけど、この先の人生は母親とは全く違うものになるんだろうなと強く感じた。
私の心の中にあなたがいる いつ如何なる時もひとりで歩いたつもりの道 でも始まりはあなただった I'ts a lonely road but I'm not aloneそんな気分