『急に具合が悪くなる』を読んで

『急に具合が悪くなる』を読んで

人は大人になると数字によって決断をするようになります。例えば「今日の降水確率は80%です」と天気予報アプリに表示されれば、傘を持ってでかけるのは現代人としては当たり前の行動ですよね。それでは、降水確率を知っていたのにも関わらず、傘を持って来なかった人を僕たちはどう思うのでしょうか。「持ってくるのを忘れてしまったのかな」とは思っても「傘を持たないという選択をしたんだな」と考える人は少ないように思う。それほどまでに僕たちは「人は数字(確率)に基づいた合理的な意思決定をするはず」だと信じています。

では、この確率が降水確率ではなくて自分の病気に関する数値だったらどうでしょう。医者から「あなたは不整脈です。一般的にこの病気の患者は直近の一年間で心臓発作を起こして死ぬ確率が10%あるので安静にしてください」と言われた時、その言葉は、あなたの行動にどのように影響するのでしょうか。

10%の確率のために予定していた友達との海外旅行や飲酒、趣味のランニングを諦めて家で安静に過ごすでしょうか。もしくは病気の確率を、飛行機が落ちる確率やアルコールで肝臓を悪くして体調を崩す確率と比較して分析するかもしれません。その後は(そもそも自分がこの10%の中に入るのか...?)などを考えては答えを出せずに悶々と日々を過ごすのかもしれません。 先日読んだ本はまさにそんな本でした。いつ死んでもおかしくない可能性(癌という病気)を持つ哲学者の宮野真生子さんと文化人類学者の磯野真穂さんが「急に具合が悪くなる」という確率について語る往復書簡です。この本では現代医療の確率問題だけではなく「患者」というラベルをはられた人とのコミュニケーションのとり方や、不幸と不運の定義など多くのトピックが語られています。そんな彼女たちが語ったことの中に「絶対に今後も覚えておきたいな」と思う大事な言葉が沢山あったのでここに書いておくことにしました。

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私たちは本当に合理的に選ぶことなんてできるのだろうか、だって私たちは合理的な選択ができることにされているから。間違った選択をする人にも適切な啓蒙と支援をすれば、合理的な選択ができることになっているから。PDCAサイクルなんてその典型です。だからそうじゃない生き方を想像するのは難しいし、そうじゃない生き方をする人を怪訝な目で眺めることがある。(磯野真穂さん)
私が特にそれを感じるのは、がんの代替医療をめぐる専門家や識者の警鐘を目にするときであり、それが今日、宮野さんに聞いてみたいことです。川島なおみさんや小林麻央さんが代替医療を使ったことが明らかになったとき、多くの意思や医療ジャーナリストが、エビデンスのある治療を選択することの重要性を声高に訴えました。でもそうやって胸を張って彼らが教えようとし得ている科学的根拠も<かもしれない>の積み重ねでしかありません。「この治療が一番効果的だと思われます。でも〇〇という重篤な副作用が二割の確率で出ます。」と言われ、その〇〇がその人にとっては決して起こってほしくないことであった時。「それを避けられますよ」という強い運命論を掲げる代替医療がその人の前に現れたのなら。そしてもしその人が、標準医療でなく、その代替医療を選択したら。この選択は非合理と言えるのでしょうか。私にはよくわかりません。(磯野真穂さん)

磯野さんはこの文章の後に、人が確率に基づく判断を手放す時はいつか。という問を立てた論文を引用します。その論文によると、人は経験値に基づく判断が不可能な時、確率を基準として手放し代わりに「信頼する人の言うこと」を新しい基準として持つと結論付けられています。それを踏まえた時、代替医療を使う人たちは非合理的なことをしていると簡単に言うことができなくなります。今まで正しいとされているエビデンスのある標準医療でもなかなか良くならない、心身ともに弱った患者。その前に魔法のような代替医療が現れた時「こっちのほうが信用できる」と思ってしまう。同じ状況なら、僕も代替医療を選択するのではないだろうか。

この文章を読みながら、合理的じゃない(と僕が勝手に判断した)人たちに対する自分のまなざしを改めて思い返しました。例えば、怪しい宗教を信じる人やコロナのワクチンの摂取を拒むグループ。きっと僕は彼らに怪訝かつ見下すような視線を投げていたと思う。自分には非合理的に見える彼らの判断も、彼らの背景(物差し)を理解した途端に合理性を伴うものになることも知らずに。

本の終盤では、体力的に非常に大変な状態にある宮野さんが、コントロールできない偶然に満ちている人生の中で、その偶然を引き受けて生きる困難について。そしてそれを実感した時にはじめて人は「自分で選んで決める」ということの難しさを感じることができると話します。

ごく当たり前のことを書きますが、選ぶためには選択肢が必要で、それが決まっていない=不確定な状態でなけえばなりません。つまり、選ぶとは不確定性、偶然性を許容することなのです。そんななかで、何をどう選び、決めろというのでしょう。必死でリスク計算をしようとするかもしれません。そしてはじき出される成功が約束されそうな道をとりましょうか。あるいは失敗が怖いので大きな変化をもたらす選択は避けましょうか。しかし、どれを選んでもうまくいくかどうかはわからないんですよ。「選ぶ」以上、そこには不確定なものがつきまっとしまいますからね。(宮野真生子さん)
結局、私たちはそこに現れた偶然を出来上がった「事柄」のように選択することなのできません。では、何が選べるのか。このさき不確定に動く自分のどんな人生であれば引き受けられるのか、どんな自分なら許せるのか、それを問うことしかできません。その中で選ぶのです。だとしたら、選ぶときには自分という存在は確定していない。選ぶことで自分を見出すのです。選ぶとは、「それがあなたが決めたことだから」ではなく、「選び、決めたこと」の先で「自分」という存在が生まれてくる、そんな行為だと言えるでしょう。(宮野真生子さん)

不確定要素だらけの未来を想像して不安が募る日々の中で、こんなにも自分の足元を照らしてくれる言葉があるのか!と胸が熱くなった。リスクに怯えて何かを選べないまま終わるのではなく、選ぶこと、そしてその結果を許容していくことで自分を確立させていく。それだけが唯一の自分が何者であるかを知る方法であるということ。宮野さんの一言が、僕が長年持っていた「無数に見えてる選択肢の中で途方にくれている間に、何も選べないまま終わってしまうんじゃないか」という焦燥感を見事に吹き飛ばしてくれた。また宮野さんはここで「自己責任論」の脆さも暗示している。私たちの人生はそもそも不確定要素に満ちていて、本当の意味で合理的に選択など出来ない。そんな中で自己が決定したことは、本当に100%その人に責任の所在があるのだろうか。偶然にあふれる世の中では誰もが失敗の選択をすることもある。大事なのはそこで他者がその偶然を引き受けていくことなのではないかと。

本の終盤で残念ながら宮野さんは亡くなってしまっているのだけど、あなたの書いた言葉に僕はとても励まされたということ、ありがとうと伝えたいです。僕以外にも、現在進行系で色んな人が本を読んで宮野さんが書き残したことに思いを馳せているんだろうな。あなたが命懸けで投げてくれたボールはたくさんの人に届いていますよ。