▼映画のあらすじ リベラルな考えを持つ素敵な両親と友達に恵まれ、楽しく高校生活を過ごすサイモン。彼はゲイだと自覚をしているが、周りにそれを言う必要性を感じていない。ある日クラスメイト達が見るSNSに「自分はゲイでそのことについて悩んでいる」という投稿が書き込まれる。気になったサイモンは投稿主であるブルーと名乗るクラスメイトに向けてメールを送る。やり取りが増えていくうちに、正体を知らぬまま二人は互いに惹かれ合っていく。そんな中、ひょんなことからメールの内容がリークされ、サイモンがゲイだという事実が学校中に広まってしまう。
週末に『LOVE, SIMON』を見た。事前にあらすじを読んで、10代の当事者に向けた映画だと分かったので「今の自分にドンピシャな映画ではないかもな~」と思っていた(僕がカミングアウトをしたのは約10年も前のことで、今ではゲイであることに悩んだりそれを誰かに言うのををためらったりしないからだ)。それでも当時のことを思い出し、懐かしさに浸りたい、そんな軽い気持ちで映画を見た。
映画を見た後、確かに当時の、過ぎた日の甘酸っぱい苦しみを思い出したりしたが、なによりも「これは今の自分にこそ必要な映画だった」と強く思った。
17歳の僕はサイモン君と同じように、ゲイだと自覚していても、それを誰かに打ち明けるなんてしたくなかった。だから将来のことを考えて一生懸命に英語を勉強していた。外国で仕事を見つけて移住をすれば、例え結婚しなくても友達や親の目を気にすることはないだろうと思っていたのだ。
そんな風に、自分のことを誰にも話さないと決めていたのだが、大学2年生の時に友人の女の子にカミングアウトをすることになる。「誰が好きか」という自分の根底の価値観を隠したままコミュニケーションを取り繕う日々が続き、それに限界を感じたからだ。このままだと誰にも「本当の自分」を知ってもらえずに、一生孤独なままかもしれないと怖くて仕方がなかった。
カミングアウトは大成功。彼女は「ゲイの自分」に関心をもってくれて、優しくそれを受け入れてくれた。はじめて自分が何者なのかを誰かと共有して、ようやく人生がはじまる感覚があった。
この成功体験のおかげで僕は親や上司や同僚など、次々と周りの人にカミングアウトを続けてきた。今では『やる気あり美』というWEBサイトで全世界に向けて自分がゲイであることを発信しているほどだ。
しかし、27歳の僕はこれだけカミングアウトを続け、周りに「本当の自分」を知ってもらったはずなのに、まだ誰かと深く繋がっている感覚が薄く、それに悩まされ続けている。このままじゃいけないと焦りながら、具体的にどうすれば良いのか答えを出せないままでいる。
しかし『LOVE, SIMON』をみて「自分が何者かを社会向けて宣言することがカミングアウトであり、それはLGBTの当事者だけではなく、誰もが社会で生きる上で必要なことだ」という映画のメッセージに、自分が悩んでいることの答えを見つけた気がした。
はじめてカミングアウトをしたとき、僕は「本当の自分」を誰かに伝えたかった。たしかにスタートは「自分が何者かを伝えたい」だったはずなのに、いつしか僕の中でカミングアウトの定義は「自分の性的志向を人に打ち明けること」にすり替わっていた。
僕が社会に、身の周りの人たちに伝えるべきことは自分がゲイだということだけではなかった。中にはもっと大切なこともあったはずなのに、カミングアウトという言葉の定義に惑わされて、この10年ほかに伝えるべきことを疎かにしてきてしまったように思う。だからいくらカミングアウトを続けても、誰にも自分を理解してもらえないままだったのだ。
例えば、本当は仕事なんて好きじゃないこと。ビジネスに対して大きな野心を持ち自己実現をしていくことが良しというムードが回りに存在していて、ただそこでジャッジされたくない一心で頑張っていること。僕の野心はそこにはなく、普段の生活では決して触れることが出来ない他人の心や感情に、確かに触れるような、そんな魔法のようなコンテンツを作る方に向いていること。
一方、そんな文章を書きたいけれど自信がないこと。いつまでも自信がないから、周りのクリエイティブなバックグラウンドを持つ友人たちが彼らの作ったものに「作品」という言葉を使う時、自分の書いたものが「作品」と呼べるものなのかどうかいつまでも引っかかっていること。
黙っているだけでは交わらない他人と自分の境界線を超えて、自分のことを知って欲しいと願うのならば、まだまだ伝えるべきことは山ほどある。例え卑屈でネガティブな「本当の自分」が他人に受け入れられなかったとしても、それは「誰も本当の自分を知らない」よりもずっとマシなことのように思う。
まだまだカミングアウトは続く。