2021/10/03

2021/10/03

最近Twitterで"みんなの忘れたニュースBOT"というアカウントを見かけた。炎上した話題を人々が話さなくなった頃にもう一度紹介するというもの。このアカウントの善し悪しはさておき、そこで取り上げられていた「女性の話は長い」「オリンピックをやめるのは簡単」「DHCヘイト声明」などの話題を見て、当時は強い怒りを感じていたはずなのに、それをゆるやかに忘れつつある自分に罪悪感を覚えた。

以前読んだT・イーグルトンの『新文学入門』に書いたあったことを思い出す。著者がフェミニズムの論文の中で女性が自身の体験について語る理由を、社会が女性に強いる抑圧に対抗する唯一の方法が「記録をすること」だからと述べる場面があった。抑圧する側は基本的には何も感知することができず、自分が抑圧してきた事実を忘却する特権がある。それに対して被抑圧者側ができることが、記録での対抗であると。「自分たちにしてきたことを忘れさせない」ということが忘却への唯一の対抗となる。そんなことが書いてあった。

これを踏まえると「忘れてしまう自分」がとても嫌になる。忘れることは全ての人間に備わっている自分を守るための機能。しかしそれが抑圧の一助になると知ってしまった以上「しょうがないよね」と笑って流すことはできない。嫌な気持ちが残る。

記録が忘却への対抗手段となるのは「女性への抑圧」に限ったことではないと『詩の中なかにめざめる日本』を読んで知る。これは真壁仁編という昭和期の詩人が「消費者として軽視されている民衆の創造力を取り戻すこと」を目的に名もなき人が書いた詩を集めた本である。その中に掲載されていた、ある主婦が書いた詩の一部を引用したい。

一九五四年七月二七日 これは歴史の上で何の特筆することもない 多くの人が黙って通りすぎた さりげない一日である。 その日私たちは黄変米配給米決定のことを知り その日結核患者の都庁座り込みを知る。 空にはビキニ実験の余波がためらう 夏の薄ぐもり 黄変米配給の決定は七月二十四日であった、と 新聞記事にしては、いかにも残念な付けたりがある。 その間の三日よ 私はそれを忘れまい。 水がもれるように、秘密の謀りごとが、どこかを伝って流れ出た この良心の潜伏期間に わずかながら私たちの生きてゆく期待があるのだ。 この国の恥ずべき光栄を 無力だった国民の名におうて記憶しよう。 消毒液の匂いと、汗と、淡と、咳と 骨と皮と、貧乏と、 それらひしめくむしろの上で 人ひとり死んだ日を記録しよう。

当時アメリカから輸入した米に有害なもの(朝顔の種)が混ざっているのを知りつつ、政府がそれを国民に配給するという出来事があった。配給は7月24日に決まっていたのにも関わらず、政府は発表を3日も遅らせた(隠蔽しようとした)ことが詩の中に怒りと共に書かれている。 名もなき主婦がこの出来事を「なかったことにしたくない」と詩にして記録した。もしこの記録がなかったら、詩の冒頭のように多くの人が黙って通りすぎるだけだったら。この出来事はなかったことにされていたのかもしれない。出来事の記録は残っていても、傷つき怒っていた人が存在したことは忘れ去られていたのかもしれない。

私は「忘れてしまうこと」が持つ暴力性を知ったあとも「忘れないでいる」自信がなくて困惑していた。けどこの詩を読んだあと、出来事を書き留めておくことからはじめてもいいのかもしれないと思っている。理不尽だと思ったこと、許せないと思ったことに、忘れられたくない気持ちを添えて。